「いい!」という声が、作家の居場所をつくる ― 障がい者アートの価値を社会につなぐ

「いい!」という声を、増やす

いつもARD(アートオブザラフダイヤモンズ)の活動を温かく応援してくださり、ありがとうございます。アートディレクターの若尾尚美です。
先月は、本社エントランスの一角を作品の展示に開いてくださっている企業のお話を書きました。オフィスの片隅に生まれたギャラリーを眺めながら、こういう場所がもっと増えるといいなと思ます。

作品の価値はすでに、そこにある

施設のなかで制作を続けている作家たちがいます。専門的な美術教育を受けているわけではありません。指導者がついているわけでもなく、自分の制作意図を巧みな言葉で語れるわけでもありません。ただ好きで、描くことをやめられないから描き続けている。
その作品を多くの人の目に触れることができる活動を私たちは続けています。作品の素晴らしさを見て感じてほしいからです。施設の職員の方々も、ご家族も、それぞれにその人の表現を認めておられます。けれど、芸術としてそれがどれほどのものなのかは、内側にいる人たちが判定できることではありません。だから、外の目に委ねられたままになっています。

「正統なアート」という枠の外側で

しかし、外の目も、
「障がい者」「福祉施設」という言葉がつくと、彼らの表現は「施設でのリハビリ」や「余暇の趣味の延長」といった枠組みで見られてしまいます。既存の美術界の基準や世間の常識から見れば、本格的なアートの土俵に乗らない「素人の作品」として、社会の片隅に置かれてしまいがちです。

無意識の偏見が打ち砕かれるとき

正直に言えば、私たちが彼らの作品に出会って心を揺さぶられるとき、そこには「障がい」という文脈がもたらす特別な驚きが含まれていることも事実です。
それは決して、「彼らには絵を描くことができないだろう」と思っていたわけではありません。ゼロから独自の世界を立ち上げる「創作」という豊かなクリエイティビティを発揮することは難しいだろうと、私たち自身が心のどこかで能力を決めつけていたということです。
しかし目の前の作品は、人間の持つクリエイティビティに障がいの有無など一切関係ないのだという事実を、鮮やかに突きつけてきます。勝手に限界を決めていた無意識の偏見が打ち砕かれたとき、人は理屈を超えた感動を覚えます。
「障がいがあるのにすごい」という驚きは、いつしか、作品そのものの圧倒的な魅力への称賛へと変わっていくのです。それでいいのだと思います。むしろ、そこからしか始まらないのかもしれません。

自分で価値を決める自由

そうやって自分の思い込みが一つ外れたとき、人はようやく、目の前の絵をそのまま見ることができます。
自分の目で見て、自分の頭で考えて、面白いかどうかを自分で決める。当たり前のことのようですが、よく考えるとすごいことだと思います。誰かが決めた評価ではなく、自分の意志で好きだと言える。その自由は、私たちの誰もが持っているものです。
私たちがしているのは、展覧会の観客数を増やすことではありません。「福祉だから支援しなければ」という道徳的な先入観から抜け出し、自分の目で見て、自ら価値を決めてくださる方を探すことです。

描き続けられるということ

一人が「いい!」と言ってくださる。それが二人になり、十人になる。その小さな共感の輪ができたとき、作家にとっての確かな居場所が、そこに一つ生まれます。
居場所があれば、作家は描き続けることができます。全員に理解されなくてもかまいません。「いい!」と言ってくれる人が何人かいる。それだけで、その人は自分の世界のまま、描き続けていくことができます。
そして描き続けるうちに、作品は増えていきます。見てくださる方も、また増えていきます。そのとき初めて、作品のなかに眠っていた価値が、社会のなかに少しずつ姿を現していくのだと思います。
価値をつくり出しているのではありません。作品には、はじめから価値があります。ただ、誰にも見られないままでは、無いのと同じ状態が続いてしまう。「いい!」という声が、それを表に呼び出してくれるのです。

一人ずつ、つないでいく

先月ご紹介した、エントランスに絵を掛けてくださった企業。通りがかりに足を止める社員の方。展示に足を運んでくださる方。作品に対価を払ってくださる方。
その一人ひとりが、居場所をつくってくださっています。
作品の価値はもう、そこにあります。私たちがしているのは、それが見えるようになるまで、一人ずつファンをつないでいくことです。
大きな社会の基準を振りかざすのではなく、自分の感性で作品を愛してくださる方を、丁寧に。これからも皆様と一緒に、あたたかな居場所を一つずつ、社会のなかに増やしていきたいと思っています。