障がいのある表現者と向き合うとき、私たちのなかで何が起きているのか

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いつもARD(アートオブザラフダイヤモンズ)の活動を温かく応援してくださり、ありがとうございます。アートディレクターの若尾尚美です。
先月号では、11月に予定している金子隆夫さんの詩集出版と、オックスフォードでの発表イベントについてお話ししました

。今月はその続きとして、プロジェクトを進めるなかで私自身が繰り返し立ち止まって考えていることを、少し個人的にお話しさせていただきたいと思います。

テーマは、「障がいのある表現者と向き合うとき、私たちのなかで何が起きているのか」

ということです。

経済的支援を考えるなかで、立ち止まったこと

ARDはこれまで、障がいのあるアーティストの作品がアートマーケットで正当に評価され、その価値が本人や施設へ還元されることを大切にしてきました。

それはいまも変わりません。作品に対して正当な対価が支払われること、作家として社会のなかで認められること、そして生活を支える経済的基盤があることは、尊厳を守るための大切な土台だと考えています。

一方で、活動を続けるなかで、私はある問いに立ち止まるようにもなりました。
作品に価値をつけ、経済的に支援することはとても重要です。しかし、それだけで表現者の営み全体に十分に応答できていると言えるのだろうか、という問いです。

アートマーケットでの評価は、どうしても既存の美的基準や制度の影響を受けます。もちろん、市場の評価が作家の誇りや収入、社会参加につながることは確かです。しかし同時に、その評価の枠組みに入りやすいものと、入りにくいものがあることも事実です。

「アール・ブリュット」「アウトサイダーアート」「障がい者アート」といった言葉も、表現者の存在を社会に伝えるために大きな役割を果たしてきました。その一方で、そうした呼び名が、本人たちの表現を特別な枠のなかに閉じ込めてしまうのではないか、という批判もあります。

だからこそ私は、市場や評価を否定したいのではありません。むしろ、それらの力を大切にしながらも、その枠だけでは受け止めきれないものがあるのではないかと感じています。

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「作品」として見ることと、その手前にあるもの

障がい者施設でさまざまな表現者の方々と関わるなかで、私はしばしば、創作という行為の奥行きについて考えさせられます。

もちろん、障がいのある表現者のなかにも、作家としての自覚を持ち、作品として発表されることや評価されることを望んでいる方がいます。作品が売れること、名前が知られること、社会のなかで作家として認められることは、本人にとって大きな意味を持ちます。そのことは、決して軽く扱ってはならないと思っています。

そのうえで、私が出会ってきた幾人かの表現者について考えるとき、彼らの創作には、単に「作品を完成させる」「評価を得る」という目的だけでは捉えきれないものがあるように感じます。

描くこと、書くこと、うたうこと、手を動かすこと。それらは、ある人にとっては、自分と世界との関係を確かめる行為であり、日々を生きるリズムそのものであり、言葉になる前の感覚を外へ出していく営みでもあります。

私たちがそれを「作品」として切り出し、展示し、価格をつけ、鑑賞することには大きな意味があります。しかし同時に、その表現が生まれた時間や身体の感覚、施設での日々、周囲の人との関係性まで含めて考えなければ、何か大切なものを取りこぼしてしまうのではないかとも思うのです。

つまり、「作品」として扱うことが間違っているのではありません。むしろ、作品として尊重することは必要です。ただ、その作品の背後には、作品という言葉だけでは言い尽くせない、生の営みがある。そのことを忘れないでいたいのです。

表現が開く、哲学的な問い

金子隆夫さんの言葉に向き合っていると、私はしばしば、これは詩であると同時に、世界の見方そのものを揺さぶる言葉なのではないかと感じます。

短い言葉のなかに、私たちが普段あたりまえだと思っている時間、因果関係、人との距離、社会の決まりごとが、少し違う形で立ち上がってくることがあります。意味が説明される前に、言葉そのものがこちらに届いてくる。その瞬間、私は、自分がどれほど既存のものさしで世界を見ていたのかに気づかされます。

ここで私が言いたいのは、金子さんや障がいのある表現者の方々を、安易に「哲学者」と名づけたいということではありません。

哲学には、長い歴史があり、概念を明晰に扱い、論証を重ねる学問としての姿があります。その意味での哲学者という言葉を、外側から簡単に当てはめることには慎重でありたいと思います。

けれど、哲学が本来、「世界とは何か」「人間とは何か」「私たちはどのように生きるのか」を問う営みであるならば、金子さんの言葉は、私たちに確かに哲学的な問いを開いてくれます。

それは、論文の形をとる哲学ではないかもしれません。体系的な概念として語られる哲学でもないかもしれません。しかし、ある表現に触れたとき、私たちの見方が少し変わる。自分が信じていた世界の輪郭が揺らぐ。そのような経験は、哲学の始まりにとても近い場所にあるのではないでしょうか。

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慎重でありたいこと

ただし、ここには慎重でありたいことがあります。
ひとつは、障がいのある表現者の方々を、私たちの側が一方的に美しい意味で語りすぎてしまう危険です。

「純粋である」「深い」「無垢である」といった言葉は、一見すると賛辞のように見えます。しかし、その言葉が本人の複雑さや葛藤、怒り、野心、ユーモア、日常の現実を見えにくくしてしまうことがあります。障がいがあるからこそ特別に純粋である、という物語は、本人のためではなく、見る側の欲望から生まれてしまうこともあります。

もうひとつは、私たちが「学ばせてもらう」という言葉を使うとき、その関係が一方通行になっていないかということです。
障がいのある表現者の作品や言葉は、確かに私たちに多くの問いを与えてくれます。しかし、それがただ「私たちの気づき」のために消費されてしまってはなりません。本人の意思、利益、喜び、負担、そして作品がどのように扱われることを望むのか。そのことを丁寧に確認しながら進める必要があります。

表現者の方々を尊重するとは、ただ称賛することではなく、その人を複雑な一人の人間として見ることなのだと思います。

オックスフォードへ、一冊の問いとして

11月に予定している金子隆夫さんの詩集を、私は「感動的な障がい者アート」としてではなく、読む人の世界の見方を静かに問い直す一冊として届けたいと考えています。

それは、金子さんの言葉を高尚なものとして飾り上げるという意味ではありません。オックスフォードという場所の権威によって価値づけたいということでもありません。

むしろ、金子さんの言葉が、場所や制度を越えて、読む人の心にどのように届くのかを確かめたいのです。そして、その場が、金子さんの表現を一方的に鑑賞する場ではなく、彼の言葉を中心に、私たち自身のものさしを問い直す場になればと思っています。

作品を売ることも、寄付を募ることも、活動を続けるためには必要です。けれど、それだけではなく、表現者の言葉や作品を通して、社会の側が少しずつ変わっていくこと。その変化に対して、きちんとお金と関心と敬意が流れていく仕組みをつくること。
それが、いま私が探している第三の関わり方なのかもしれません。

障がいのある表現者と向き合うとき、本当に問われているのは、表現者の側ではなく、むしろ私たち自身のものさしなのだと思います。
私はまだ、その答えを持っているわけではありません。金子さんの言葉と、出会ってきた表現者の方々の姿と、そしてこの活動を支えてくださる皆さまとともに、少しずつ、丁寧に考え続けていきたいと思っています。

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